私にとって「適応する」とはどういうことなんだろうか?

http://d.hatena.ne.jp/TM2502/20120929/1348892980
において、

強すぎる自意識を保って、社会適応を拒み続け、この無限ループの中で生き続けるのは、自尊心の供給が断ち切られている状態なのでかなり辛い。かといって、(単純に)適応すれば幸せかというとそういうわけでもない。むしろその方がずっと辛い事になるケースは多いようです

ということを書きました。

なんとなく「適応」という、便利で前向きに聞こえる言葉を考えなしに使っていましたが、「適応する」とはなんだろうってのがよくわからなくなってきています。




これについて、id:p_shirokuma がかなり印象的なツイートをされていました。

俺は、自分の感情が表出できないこと、妨げられること、社会との折り合いをつけられないことにずっと悩み続けていた。だからこそ、自分の感情が表出できること、自分の感情が妨げられないこと、社会と最小限の摩擦で済むことをかけがえないと思う。そして、だからこそ、適応をつきつめたいと願う。


「適応」が何かはわからないけれど、私が「適応」なるものを通じて求めているのはこういうことなのだろうと思います。

つまり適応の定義が重要なのではなくて、自分がどういう状態を求めているかをまずはっきりさせておくべきだろう、と。そう考えたら

1 「自分の感情が表出できること」
2 「自分の感情が妨げられないこと」
3 「社会と最小限の摩擦で済むこと」

というのは極めて明確な目的になりうると思います。私はshirokumaさんとは別の人間なので、優先順位や詳細などは当然異なりますが参考にさせていただきます。



そして、これを目的として、手段や過程としての適応を考える際に、その際に心がけるべきはこういうことなのでしょう。

思春期の中盤の人にありがちな過ちに、「自分を数ヶ月単位のスパンで評価したり目標だてたりする」があると思います。でもそれ間違ってます。思春期は、アイデンティティがよくわかんない「俺ってなんだろう」が虚ろになりやすい時期です。だから早く答えを出したいと願うのは当然ですし、私もそうでした。でも、そのために他の連中の顔色に左右されて、今この場での評価と心理学的満足に駆動されるのは、もったいないです。

30代の自分にどんな贈り物ができるのか、が、大事だと思います。そのためなら、屈辱回路を彷徨うぐらいの気概(をもつ)。誤りは誤りとして、今時分の時分の思いを大切にしつつ、遠い未来を見据え(る)。

つまり、いきなり上の目的を短期間で実現しようとしない。すぐに実現できなくてもそこで社会はクソだとか会社がクソだとか言わない。長期的に見ても全く展望が描けないなら別として、そうでないなら数ヶ月で投げ出したりとかしない。その上で、居場所を得たい。人に認められたいということ自体は誰に何と言われようとも否定しない。

自尊心、承認欲求という言葉も冷笑的なニュアンスを込めて使われることが多いですが、「人に認められたい」という欲求は食欲などと同じぐらい重要で、それを馬鹿にすることは食欲の存在自体を馬鹿にするのと同じです。

このあたりかなぁ。



発信者としてだけでなく、収入を得る社会人としても、配偶者と幸せを築いていく個人としても、本当にそれが問われるのは二十代前半ではなく、二十代後半か三十代に入ってからです。そこでのあなたを最適化するような適応戦略を、私などは、奨めたくなってしまいます。今、成熟か未熟かでなく、遠い未来のあなたが立派であれば、それでいいと思ってます。

多分、shirokumaさんに限らず、周りのオトナの人はこう思ってるのだろうから、この考え方に合わせたほうが波風立たないだろうし、実際先人の知恵としても正しいものなのでしょう。





頭ではわかっていても、その時に認められていないのは本当につらいし、長期的にはダメな方向だとわかっていても、現時点で認められるためにフラフラ流されそうな気がします。

彼は「現時点において自分を必要としてくれると感じているから働いている」のであって、「構造的に正しいから働いている」のではありません。見下されるのはそれほどに辛く、認められるのはそれほどに嬉しいことなのです。あなたまだ将来があるんです。今すぐ正解にたどり着けなくてもいい。今最適でなくても、30歳で最適になるように、色々積み上げて欲しい

最終的には「若さ」というものを、自分を肯定する理由にするしか無いかもしれません。若い間は自分で自分を承認するのに根拠も何もいらない、位の開き直りを持つべきかもしれません。





具体的なところはおいおい考えたり、先輩たちに相談させてもらったりしながら考えていきます。