「中二病・厨二病・正義の味方ごっこ」などについて考えてみた

※先に言っておくと、明確な結論や主張はありません。他の人の記事を引用しながら考えたことをメモしてる感じだと思ってください。



私は「中二病」のことを「恋の病」と同じく前向きなものと捉えています。

語源も知っていますし、伊集院光がその場で述べた定義も知っていますが、自分の中では「繰り返す日常への飽き」「ここではないどこか」「まだみぬ何かへの憧れ」「自分に劇的な事件が起こることを求める心情」程度に解釈しています。
一言で言えば「ワクワクする体験を求める心」「好・奇体験」くらいで。そうかんがえると、行き先さえ間違えなければ間違い無くこれはよいものではないでしょうか。 人生をイキイキと過ごしたいという欲望につながるものだと思うからです。上手に制御できればむしろ好ましいものなのじゃないでしょうか。



まぁ、ありきたりな意見ですね。



で個人レベルで考えるとそんな感じなんですが、無駄に考える範囲を広げて、社会レベルとか人間レベルで考えてみると、結構ネガティブなものが詰まっているかもしれないと思ったりもします。

で、厨二病の話に移ります。

およそ、不幸を伝え得ぬというほどの不幸はない。彼は貧しかったから不幸であった。野心に挫折したから、あるいは女に裏切られたから不幸であった。このような不幸には理由がある。つまり告白すれば他人が耳を傾けてくれるのである。だが理由のない不幸(略)をどうやって伝えられるか。しかもそれが日夜生理的に耐え難いほどに身と心を責めさいなむとすればどうしたらよいか。このようにいえば、人はおそらくそれは狂人の不幸、むしろ単なる狂気にすぎないというであろう。だが、私はそのような不幸の実在を信ずる。信じなければ、夏目漱石の作品にあらわれた仮構の秩序は理解できない、という理由によってである)

http://nire.fool.jp/dokusyo/dokp/dokgp002/dokp142/dokp142.html


一部の人の「中ニ病」が「厨ニ病」なるものに変形するのは、「奇体験」を求める際に自分の中にある現実の体験や知識の蓄積が少なく、それでいて架空のお話の体験は多く、そういったものに心動かされた経験があるからでしょう。発想の源泉が偏ったものになっているということです。
もう一つ、現実における知識や体験を得る機会が狭まってきているというのもあるかも知れません。親や社会による管理やら、友達関係の窮屈さやら、そもそも金がないだのいろんな事情があると思いますが、自分たちの手の届く現実が狭く、そしてその現実に楽しみを見いだせない、と。


このような人間が、妻子によって狂人扱いをされ、いつ猛り狂うか知れぬ「虎」と見なされるのはいたしかたがない。しかし狂人や「虎」の内面には空虚な荒廃しかないのに、彼の内面は人間が存在するという恐ろしい事実に対する直観で泡立っている。この直観を怒号によらずに表現しようとすれば、彼は仮構という逆説的な手段にうったえるほかはない。仮構は一切の社会性−つまり他人と共有しうるという可能性−を奪われている彼の不幸を、社会的なものにしようとする努力、つまり理解されたいという願望から生じる。願望はもちろん自らを狂人と認めて不幸の実在を撤回することの拒否から生ずるのである。が、このとき、彼は怒号をこらえねばならない。人を食い殺す「虎」ではなく、人間の皮を見にまとい、人語を話す「虎」に変身しなければならない

よく「厨ニ病」は若者の奔放で自由な想像力の発露だとか言いますが少し疑わしくなって来ました。実際は知識や経験の偏りという制約、そしてその想像力を現実方向に向けることができないという制約、二重の縛りによって、閉じた領域で想像力を持て余すからこじれるのではないかと思っています。 「自分がイキイキと過ごせる空間はそこしかない」という、引きこもり的な切迫感が感じられて見ててキツイ。 *1

……他人に伝えにくい気持ちを伝えようとするときの、あのもどかしさを思えばよい。……このようなとき、人は一瞬沈黙して言葉をさがす。だが、言葉がどれも片々と軽くて、何の役にも立たぬと知ると、今度は一転して何かのたとえ話をはじめる。たとえ話は原始的な仮構で、その故にてあたり次第の言葉を並べるよりも本来の伝え難い気持ちを正確に暗示するのである)

さらに、こういう見方はもう古いかも知れませんが、現実に対する不満や不幸があっても、それを訴える言葉を持ってないことが根本としてあるのではないかと。 せめて自分についてのその不遇や不幸を語りたい、伝えたいという気持がどこかにアルのかなーとか。
「伝わらない」というもどかしさに耐えられない。幼いから人間なんてそんなものだという諦観をもたない、という意味ではなく、どうしても伝えずにはいられない、という強い気持ちがあるということ。自己表現欲が高いということでもあるかな。




まぁそれでも「厨ニ」はいいです。更にずれると、いてもたってもいられなくなるのか、「正義の戦い」を始める人もいますが、ここまでくると、もうここの領域かと

江藤は、微妙に団塊世代の前になる。むしろ、野坂昭如大橋巨泉青島幸男といったマスコミ薄ら左翼のなかにいる。そして彼らは団塊世代を実質操って文化人のような大衆支持のような正義で白粉を塗りたくった。吉本は自身の欺瞞の内省からこのうす汚い奴らを見ぬいて戦い続けた。三島は反動した。山本は傍観した。江藤はその世代の最中で、いわばバク転した。彼は夏目漱石小林秀雄の、大正的な近代性から出発しながら、むしろ小林を超えて、三島的なものに揺り動かされてしまった。これを解体できなかったのは、山本のような戦争の実体験がない、一種の引け目ではなかったかと思うし、まさにそれこそが三島だった。

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20100228/1267319873

もっとも、多くの人はこうした知識人のような知識や何かはないので、誰かに扇動される形でいろんな運動に取り込まれているだけだと思いますけれども。





特に結論はありません。中2病を前向きなものとしてとらえるつもりだったのですが、なんだか結果としては考えれば考えるほど暗い方向に進んでしまいました。あんまり意識したことなかったですが、私は中2病的な振る舞いをする余裕がある人のことが実は嫌いだ、というか嫉妬しているのかも知れません。そういえば、私はさやかがズタボロになって自滅していく姿を見て心のそこからスッキリしたりしてたので、ただのゲス野郎なだけかもしれない。 あの手のタイプに対しては狭量なところがあると自覚しております



このまま終わるのも何なので、中2病小説の傑作「さよなら妖精」の話でも。

さよなら妖精』の登場人物を引き継いだ短編も4編(『失礼、お見苦しいところを』『恋累心中』『ナイフを失われた思い出の中に』『名を刻む死』ほど存在するがアンソロジーとして収録された1編以外2012年8月現在未単行本化となっている。

http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%95%E3%82%88%E3%81%AA%E3%82%89%E5%A6%96%E7%B2%BE

ユリイカ2007年4月号 特集=米澤穂信 ポスト・セカイ系のささやかな冒険
・ミステリーズ! vol.26(DECEMBER2007)
・蝦蟇倉市事件2 (ミステリ・フロンティア)

これらに「さよなら妖精」の後日談にあたる短編が収録されているとのことです。
大人になった守屋と大刀洗の姿,大刀洗がフリーライターとして事件に関わる話

http://junkheadnayatura.blog24.fc2.com/blog-entry-1876.html

読みてええ!

白河の名前の謎解きは当初千反田でやる予定だったもの。その為白河の下の名前は千反田に似たものにした。(中略)白河の下の名前は千反田に似たものにした。という方向性から考えると,「江留」の江,川のイメージから流れ出るで「いずる(出流)」。そこから逆の意味になる漢字にしたのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/ryou-akiyama/20060617

天賦の才で勝負出来るのならばそれで良いが、できないならば技術を磨かなければならない。座右の銘は「選んで当然のものを選んだ。捻くれたものを選ぶほど捻くれてはいないつもり」。誰にも負けないものなどがあれば苦労はしていないし、前面に打ち出している。ずっと探していくんだろうな、と思っている。

日常の謎ものでは犯人が謎を隠そうとする意志がない。また、日常では何か不思議なことを見つけたとしても、それを突き詰めて考え、解決しようとしたりはしない。謎を解かせようとするなら、日常から「ミステリ時空」に引っ張っていかなければならない

独特な手法と言えば、新入社員の試験で使われる「自分について30項目紹介する」というのを登場人物についてやってみてキャラを把握している

小中学生に良い本を届けるのは大人の義務、と考えている。中学生はもう十分に大人なので、控えた方が良い本というものは無いと思う。

*1:なんか最近、もういい年をして「自分が輝けるのはブログしかない!ブログ中心で生きる!」とか言ってる人いましたね。そんなに現実ツライかなぁ・・・ツライよねぇ。私もブログとかネットに引きこもって生きられるならそうしたいです。無理だと思うからやりませんけど