「目線」の人と「気分」の人

数日前に大学で教育社会学研究者の講演の準備を手伝いがてら、講演も聞いてきました。
大学生向けの講演ということで、専門用語連発とかではなくとても聞きやすかったです。
ノートも大量にとってきましたが内容はおいおい整理しながら書いていきたいと思います。


講演の途中であった話しとして、
この「目線」と「気分」の違いについて述べられていました。




教育についてはみんな好き勝手に語りたがります。
語れるものだと思っているのです。
自分が教育を受けたことがあるし、
誰かになにかを教える経験はだれでもあるから、
なんとなく自分にもそれを語る能力や資格、経験があると思っているのです。


でも、私を含め、そういう人たちは
教育者「気分」で語っているに過ぎないんだよ、と。


観光地に来ているお客さんみたいなものだ、と。
こういう人が、一度訪れただけの土地について、
その土地に住んでいる人になったつもりで話すのと同じで、
実際はわかってることなんてほとんど無い。
にも関わらずなんとなく、自分はそれだけでその土地を理解したつもりになってる。
そんな「気分」を味わうことは悪いことではないけれど、
その自覚をちゃんと持ってなければいけませんよ、と。



「目線」を獲得するにはアレもコレも必要で*1
だからこそ教師は専門職であり、教育に関する研究者というのもが存在するのだよ、と。
真剣に教育について語りたいと思うなら、「気分」のレベルで満足するのを抜け出して
「目線」をいかにして獲得するかを考えてくださいね、と。





これは教育者じゃなくて経営者とかでも同じなんでしょう。ビジネス書なんかを読むと、よく「経営者目線で」とか「顧客視点で」とか言う言葉が出てきます。これって簡単だけど、とっても難しいことですよね。



「俺は会長に酒に飲みに連れて行ってもらったんだぜ」とか経営者との距離の近さをアピールしてみたり、働いて半年程度の経験でなんちゃって経営論、なんちゃって商売道、なんちゃって教育論を語っちゃったりして、「自分は経営者目線でものを語れる人間だ」とか胸を張ってしまう人もいます。
わたしもよくやります。 岩崎さんのブロマガについても、さんざんわかったつもりで好き勝手なこと言ってますしね。まぁ大体的はずれなんですがorz



ただ、こういうのは自分がエライ人になった「気分」を楽しみたいだけで、真剣に「目線」を獲得しようとはしていないと思う。そういう立場の人のいい所どりをしたいだけで、その立場の苦しさや難しさ、制約条件などを考えたりはしてない。それだけだと、まあ現実から乖離した理想論か、もっといえば妄想話になってしまい、実際に役に立つ発言は多分難しいと思うのです。



教育者の目線を獲得する際に、もちろんなりきったつもり考えてみることは必要だとおもいます。でもその時に圧倒的に知識も経験も足りないってことを自覚しないと、いつまでも「気分」から抜け出せないな、と感じます。



もちろん「気分」を楽しむことは全然悪いことじゃなくて、ただ、気分で楽しむなら、その自覚を持たないとダメかなーってことです。

*1:教育について語るなら数学や統計学は必須と言われて、あー私には無理だーと思ってしまいました