「その時」に別の世界へアクセスする手段を持つこと

今年1年通してのマイベスト記事かもしれない。ものすごく刺激的。

http://blog.livedoor.jp/love_aeria/archives/51809210.html

何がどうすごいか説明できないけど読みながらtwitterで実況してた内容をそのまんまコピペしておく

「努力神話」が流行だったが、それらは「不安解消マーケティング」にすぎない

いちばん単純な投資方法は、その会社の社員になることだ。だがその場合も、ただの「一社員」になるのではなく、経営層の一員となるか、株式を所有するといった形で、会社が大きくなったときにそれに応じて自分もリターンを得られるようにする

というか、本来的な意味での「社員」とはこの人たちだけだよね。会社も「社員」は大切にするし、「社員」は会社のことも大切にする。会社は誰のものかといえば、「社員」のモノなのだろう。見ている方向が同じ人達。


期待が急速に高まった。マーケットも一時はそのストーリーに乗り、関連株は大きく上昇した。ところが、その後は一転して過剰設備に悩まされ、価格競争は激烈を極めた

ただ有望、というだけではだめなのが難しい。圧倒的な強さやスピードが求められるし、運も絡んでくる。

たとえ2年前の時点でUBICの事業が有望だとわかっていたとしても、これはあまりにも狭き門だと言うほかない。だが、UBICの株なら誰でも買うことが出来たのだ。それこそ時価総額が3億円を割るほどの捨て値で売られていたのだ

誰だって本当に有望な企業に参加したい。ただし「実際に働く」の門はどんどん狭くなっている。そこで「働く」だけが本当に正解なのか。

所属や職種、時には言語や国境さえも超えて、いつでもコモディティ化していないマーケットへとアクセスすることが可能

これが株式投資の魅力なんだってさ。株式投資に限らず、この発想は何かに活かせないかな。


ただ、そのあとの続く文章がシビアだ。

将来性を感じさせるストーリーが出てくると局所的なバブルが発生するのだ。それをいち早く察知するには、特定の分野に対する専門性よりも、むしろ世の中の動き全体を広く浅く観測することが重要となる

きわめて局所的だが、具体的な経済話。こういうの読みたかった。全体としては、もはや人でさえコモディティ化する世界に生きているわけだから、「マクロ」そのものの流れを理解してもそれだけで生き残る道を見つけられない。 「業界」単位では正解は発見できない。 そうじゃなくて「企業」単位、事業単位、ストーリー単位でものを見れないとダメなんじゃないだろうか。ゆえに、ラノベ全体を語るような、おおざっぱな業界なんて話はその中で生きる業界内部の人間か、業界そのものを破壊する天才が考えていればよく、自分たちはその中でいかに生き残るストーリーを作り上げるか、という事を考える必要があるのではないか。

株って変化を取るものだから、変化をきちんと取っていきたい。是非など我ら投資家にはどうでもいい. 変化を取るためのポジションをがっつり組んで置いた。

ある業界と別の業界に起こっていることから、次にどんな変化が生まれるのかを推測できれば人に先んじることが出来る。今なお利益を上げている投資家は、いうなれば「観測者」としてのエキスパートなのである

この「観測者としてのエキスパート」という生き方だけは普遍的に強いと思う。kaienさんの周囲にいる方々は、敷居さんやらペトロニウスさんを含めて、この「観測者としてのエキスパート」という印象を受ける。 マニアックではないし、一つの知識について正確かというとよくわからないけど、もっと本質的なところを見つける嗅覚みたいなのがすごい感じ

あらゆるものがコモディティ化との戦いにさらされていることを認め、それを前提として生き残る術を1人1人が考えていかなければならない時代になった。とは言え、自分一人が持ちうるスキルには限界がある。その時、全く別の世界へアクセスする手段としての○○○○

これを考えないといけない。両者に共通していたのは、ただデータを見ているだけではわからない「変化」を、自分で考えて見つける、という技能が観測であり、そのためにいろいろ関心持って眺めてみましょうってことらしい。大変興味深い。





この記事が自分に衝撃を与えるのは、投資家的な生き方で大事なのは「観測者としてのエキスパート」になって「変化を見通すこと」がこれから求められるということを突きつけてくるからだ。 そして変化の先を見通す際に「是非はどうでもいい」と言い切るその思い切りの良さが、私には全く無いものだと感じた。

私は是非はなんとなくわかる。でも、是非って言ってみれば結果論とか、すでに確立された、しかも広い範囲で通用する価値基準にもとづいて考えてるにすぎない。 今はそういう大きな視点を土台にしつつも、もっと細くて狭い視点で、しかも是非が今から決まる地点を見るということが大事なのだという。 これは自分が曲がりなりにも培ってきた部分は、土台(しかもものすごく低い)としてしか役に立たないってことじゃないだろうか。 

「それって楽しいのか?めちゃくちゃしんどくないか?」って思ってしまう。そしてそういう人間はこの先キツイのではないかと言われてる。私はどう考えたらいいんだろう。 悩ましい、すごく悩ましい