「努力するかしないかでいちいち意識高くしないとダメな時点で二流」

http://d.hatena.ne.jp/TM2502/20121222/1356146420
で「意識高い人」って言葉使う人は、この言葉で何を表現したいんだろうと思ってたら岩崎夏海さんが面白いこと書いてる。 「意識高い」人の定義を考えたり、それを叩くんじゃなくて、この言葉を通過点にして、自分の望む読者像を定義するってのは面白いね。

ぼくのブロマガは、おかげさまで入会してくれる人もいれば、退会する人もいる。そして退会する人の傾向というのが、最近分かってきた。まあ、想像つく人もいるかもしれないが……それはクリティカルリーダーたちだ。つまり、物事を批判的に読む人だ。疑いながら読む人。こういう人が、ぼくのブロマガに期待していたような充足感を得られず、退会していく。しかしぼくは、それはそれでいいと思う。クリティカルリーダーというのは、基本的には何かを批判して溜飲を下げたい人のことで、つまりはちっちゃな自己満足を味わいたい人たちのこと。言い方を変えれば、最近流行りの意識高い系の人々だ。ビジネス書を読んだら、それだけで満足しちゃう人

岩崎夏海的な「意識高い人」の定義はここらしい。


dankogai氏もちきりん氏も、そういう人を騙して適度に持ち上げて良い気持ちにさせるのが肝要だという。かつてnaoya氏もメルマガとはそういうビジネスだと言って批判した。それは信者ビジネスだと。しかしそれは信者ビジネスというよりはほとんど詐欺に近い。あるいはコンプレックスビジネスだ。人の劣等感を狙い撃って、彼らを気持ち良くさせて騙して搾取しているのである。ぼくはそういうビジネスには荷担したくない。

お約束のパフォーマンス。
敵を立てるって構図も自分を引き立たせるために非常に有効だね。


当たり前の話だが、ぼくが誰かに教えると言うことはこれからもこれまでもない。学ぶのは読者なのだ。読者がぼくの文章の中にそれをえぐり出すのである。受動的ではなく能動的なのだ。教わるのではなく学ぶのである。ぼくはその触媒に過ぎない。そしてもちろん、触媒にも一流と三流がある。人が触発されやすい記事もあれば、そうでない記事もある。人が学べる記事もあれば、そうでない記事もある。ぼくは超一流の触媒になろうとしている。超一流の「きっかけ与え師」になろうとしている。そしてそのためには、ぼくが何かを教えるという立場に立っていてはそれができない。どこまでもそれを放棄しなければならない。岩崎夏海は何者でもなく、社会の最底辺から物事を見ているという立場を貫く必要がある。そこからえぐり出すのはあくまでも読者。そういう人が、ぼくのブロマガを読んで面白いと思う。なぜなら、自分の中にもともとあったけどそれまで気づけなかった気持ちに気づけるから。それは最高の喜び

提供するものを定義し、それが最高に価値があるものだと訴えかける。



だからぼくの読者にはおそらく「意識高い系」の人はいない。意識などしなくても、貪るように学んでしまう人、回遊魚のように学び続けなければ生きていけない人が読んで面白いと思う。そして社会で実際に活躍したり成果をあげるのは、そういう「意識してない系」の人。どこのマグロが、泳ぐことに意識が高いでしょうか?どこの大鷲が、飛ぶことに意識が高いでしょうか?意識しているようではダメなんです。意識しないでもできるようにならないと。

ちなみにそんな信者ビジネスにだまされない
選びぬかれた精鋭であるハックルブロマガ読者はこういう人たちです。
https://twitter.com/TM25021/huckleberry



意識高い系の人は、ぼくのブロマガを読むとがっかりすると思います。だから読まなくて大丈夫です!それよりも、意識しない系の人にお勧めしたい。意識しない系の人は、意識高い系の人よりこうしたネット記事を読む機会が少ないので、彼らになかなかリーチできないのが欠点だけど。意識高い系の人は意識してネットを徘徊してコンテンツを見つけてとりあえず読んでみる。だけど意識が高い分だけそれが邪魔して成果をあげられない。意識しない系は何も意識してないから生活の中でもばりばり学んであまりネットの記事に触れ合う機会がない。だからブロマガもあまり読まない。だけど、意識しない系の人にいつかリーチできるようなスキームができたら、ぼくのブロマガはもっと多くの人に読まれると思う。

ここが一番興味深いところ。実際まだまだネットでリーチできる(しやすい)層って、ごくごく狭い範囲の層だと思う。 もちろんネトウヨとか「岩崎さんが言うところの意識高い系」みたいなのは拾いやすいと思う。このあたりは、もう釣り方・煽りかた、オルグの仕方まで大体方法論化されてきてる感じがある。でもここはレッドオーシャンだし、相手に合わせないと全く反応してくれない。自分をぶつけて受け止めてくれる人たちではない。 相手に合わせようとし過ぎて01さんみたいに壊れちゃう人もいる。それじゃあ意味が無い。
かといって、「これは」という人を人を選び出したいと思うと、なかなかピンポイントで見つけ出すのは難しいと思う。 キーワードとかタグで辿りつけないものを共有したい時どうするんだという問題については、私もちょっと気になる所で、こういうのを書いてみた。

http://d.hatena.ne.jp/TM2502/20121224/1356319904



彼らも困ってない訳じゃない。自分の中に眠っている可能性を見つけ出せずに苦労している。だからその触媒を欲してる。よく、その人と話していると自分の言葉で自分自身気づかされるという人がいる。聞き上手とも言われるけれども、ぼくは触媒系と呼んでいる。そして世の中には、文章の触媒系もいる。その人の文を読んでいると、その人から教わるのではなく、自分自身で気づかされるのだ。その人は触媒に過ぎない。ぼくは世界最高の触媒系作家になる。そのための日々訓練。修行。ブロマガ年間250本記事書きもその一環。そういう荒行に取り組んでいる姿を見せることもまた、触媒行為の一種。ジブリの「熱風」12月号
http://www.ghibli.jp/top.html)で、大月俊倫が触発されたと書いていたのも修行者にだった。ぼくはそういう修行者として生きたい

私は岩崎さんには今のところこういう要素はこれっぽっちも感じない。でも経営者とか芸術家の人たちに指示されているので、多分私にはあまりこういうのを感じ取れる感性が育ってないか、それを阻害する「意識の高さ」があるということになるんでしょう。残念です。

多分私はこの先も触媒者にならないし、そういう人が発するオーラのようなものを感じ取ったり、すくいあげることができるようにさえならないと思う。 そのかわり、結果としてそういうものが出来上がってるのを観察して見つけることくらいはできないかな、と思ったりする。

「咲」の無能力者と特殊能力者の戦いとかは、最初はネタ程度に見ていたけれど、最近はいろいろと思い入れを持ちながら読み返している自分がいる。