ネット言論空間に持ち込まれているゲームの種類について

はてな村オンライン
http://anond.hatelabo.jp/20121227204454


に関連して、まっさきに
http://anond.hatelabo.jp/20120422100216  
思い出したけど、これだとはてな村ローカルすぎるので、
もうちょっと幅広い視点で書かれているものとしてこの記事オススメ。

http://www.mammo.tv/interview/archives/no239.html

問うべきは、コミュニケーション能力の高低ではなく、何のゲームが行われているか、ということです。
(中略)
それぞれ目的や行っているゲームは違うのだけれど、使われているボキャブラリィは表面上同じ。だからこそ厄介なんです

この記事、実は4年以上前のものなのだけれど、上の増田記事なんか見てると、あんまり変わってないような、あるいはダメな方向に先鋭化したような、不思議な感覚。




■ネット言論空間に持ち込まれているゲームの種類を認識する

①政治的な理由を持ち込み、自分達にとって利益になるかどうかでその対象を観察する者。

②「私たちの自尊心が損なわれた」「もう海外に行けない」といったように、快であるか不快であるかで憤る者。

③それとはまた別に、とにかく毎日新聞が叩かれる様子を「ざまあww」と楽しむ者

④別のゲームもウェブ上では行われている。たとえば読売新聞の人気サイト「発言小町」のような場所では、ローカルな人間関係のメンテナンスに力が注がれています→ローカルな人間関係のメンテナンスを主目的とする者。

はてなコミュニティのような、「終わりなきサークル部会」


■ネットでこの先生きのこるために必要なのは、コミュニケーション能力よりも、ゲームのルールを理解して、そこで有利にたてるよう工夫するゲームメイク能力

問うべきは、コミュニケーション能力の高低ではなく、何のゲームが行われているか、ということ

「コミュニケーションの地形効果」そのものを理解し、変えないといけない。立ち位置を修正しようとすることも大事ですが、「そんなことよりこれを語ろうぜ」「2ちゃんねるじゃなくてここで語ろうぜ」といって、より面白いネタやチャンネルを投下したほうが有効。

重要なのは、実は争点が設定された時点で、どの立ち位置が優勢になるかはほぼ決まってしまうこと。多くの議論は、議題が設定された時点で答えが出ています

③二元論に持ち込むと「嗤い」のゲームが駆動する
「嗤い」のゲームをする人たちの間では、瞬発力が競われていますが、持久力を鍛えるようなコンテンツをずっと提供し続けることによって、長期的な議題設定では優勢に回るといったような発想が求められます。嫌韓流ブームが議題として強力だったのは、「韓国人が好きか嫌いか」「どれが正しいか」ではなく、「どこまで嗤えるか」という設定だったから


④一つの合理性で傷ついた人が、別の合理性を持つコミュニティに所属することで癒されたりする。もともと人は自分の見たいものを見ようとします。つまり自分の持っている合理性を発揮したがるものです。ただ、複数のルールの中で合理性を求め、それぞれいいポジションを得ようとしたら生きづらくなるので、特権的にやりたいゲームをいくつか選択し、そのメンテナンスをやりやすくしてくれるメディアが求められる。


ネットなどのメディアと、旧来的な「成熟」のモデルは、かなりミスマッチを起こしています。高校生にとってリテラシーを身に付けることは、倫理観や権力云々といった文脈とは別に、自分が楽に生きるための方法を見つけることになる。互いのコミュニケーションの目指す合理性がぶつかったとき、異なるコミュニケーションの存在を認められるかどうか。他人を尊重するための議論の場を確保する必要がそこで生まれるので、その寛容さをどう確保するか。 



⑥インターネットは、欲望がないとあまり楽しめない。なのでネット云々の前に、自分の欲望を発見することがベスト。自分がいたいと思える場所を見つけたとき、そこで初めて振る舞いやリテラシーが問われるから、そこから何か始めればいい。ようは、自分なりのおもしろい人になれるかどうか。おもしろさの価値なんてひとつのモデルで言い尽くされることなんてありません





■ついでにリテラシー問題についての大前提をおさらいしておこう

①コミュニケーション能力やリテラシーの高さとモラル・倫理の保持が混同されています。もともとメディアリテラシーという言葉は、「大きな権力」や「大きなメディア」に対抗するという文脈から出てきたもの
かつては、「マスメディアの言うことを鵜呑みにすれば、欲しくもない商品を買わされてしまう」。あるいは「国家総動員体制をつくるためのプロパガンダに利用されるかもしれない」ことへの懸念がありました。それに対抗するために、成熟し、「権力」から独立した「市民」になれば、国家や資本主義社会に取り込まれることを抑止できるというわけです。そのための能力が、「リテラシー」であると。


②無論、そこにはある種の倫理観などもセットで含まれていました。だが、残念ながらこの考えはネットには通じません。ネットにおいては対抗するべきは大きな権力や大きなメディアではなく、小さなメディアに反映された、あちこちから湧いてくる有象無象の諸欲望なので、相手は自分と同様にフラットな関係であり、しかもそれに対抗できたからといって「市民」として成熟しているかどうかは別の問題