「限界に近づく性善説に基づいたシステム」というテーマ(導入)

とりあえず思いついたので導入だけざっくりと。


性善説に基づいたシステムについて。

性善説というのはいろんな要素があるとおもいます。事業運営者と顧客に分けて考えると

事業運営者にとっては「マナーが良い」以外にも「顧客が平均化されている」「訴訟リスクが少ない」などいろんな要素を考えると「良質な(都合の良い)顧客」が比較的安価に獲得できるという点が重要でしょう。これはコスト的な面で大きなメリットが有ります。

顧客にとっても、性善説にはメリットが有りました。金銭の代わりに品の良い振る舞いをし
同調圧力によって品の良くない顧客を抑える(企業に都合が良いように無個性化する)ことで事業運営者のコストを抑えれば、同じ価格でも良いサービスを受けることができていたわけです。


ある時期は、両者にとって性善説がメリットとなっていた。
両者の利害が咬み合って、いろんなことが性善説を前提として実現できていた。

・今まで日本が値段の割に驚異的なレベルの接客サービスを運営できたのも、
・日本の教育は良い意味でも悪い意味でも非効率的な教育システムを維持できていたのも
コミケが入場が無料*1で60万人動員という驚異的な運営を維持できていたのも、
・ネットがいろいろとオープンかつフリーだったのも、
・日本企業が勤勉革命と呼ばれる形で高度経済成長を成し遂げたことも
・厳しい厳しいとは言われながらも日本の著作権はいろいろ甘かったのも

そのように考えています。


時代が少し変わって顧客のあり方は変化してきましたが、それでもこの流れは続いていると思います。 コミケが顧客を指して「参加者」と呼ぶこと、学校が顧客との間に特別な関係を築きたがること、他にもいろんあ企業やイベントが顧客をファン化したり当事者意識を持たせてロイヤリティを高めようとすることなんかもそうですね。基本的に日本人は「性善説でやればいろいろとうまくいくはずだ」って考えが刷り込まれているのかもしれません。




ただ、今はこういう考え方がもう限界に来てるよね、って話があちこちに見受けられますね。


体罰問題は二重の意味で、教育現場における性善説の限界を示していると思います。教師に無限の性善説を期待することの限界は早々に指摘されているにせよ、生徒(保護者)においても性善説は期待できないということでしょう。その結果急激に増大しているコストに対してろくな対応がなされず現状維持を続けようとした結果の一部として体罰をとらえるべきじゃないでしょうか。というか議論が校門で生徒が圧殺された時から一歩も前進してないような。



ブラック企業問題は、企業側がもはや性善説で事業を回せなくなっていることを示しています。コスト面以上に、従業員の教育・精神のケアなどの問題において、事業外だけでなく事業内で既に赤字が出ており、外的なコスト増大や低価格化に耐えるためには人権侵害しなければ成り立たなくなっている。



他にも「都合の良い人材」「都合の良い客」を求めることの限界を感じる例は多数ありますよね。 日本企業、特にサービス業の効率化は性善説に依存しすぎていました。
「事業者にとって都合の良い顧客」を想定してそれに合わせてサービスの質や価格を決定していた面は大きかったと思います。それはもう成り立たなくなっている、と。



今後はこの性善説に頼りきるのではなく、他の考えも必要になってくるでしょう。

事業運営者のコストを下げ、かつ顧客が提供するものに価値を感じて金を払うようになる仕組みを作るという目的を考えた時に、必ずしも性善説がベストではない。「フリー」や「オープン」が最善とはいえない。 顧客にマナーを当然のように求めるのは得策ではない。そういう考え方を持つ必要がありそうです。

どちらかといえばコスト削減を意識して無個性扱いしていた顧客を刺激して、金払いをよくさせなければいけない。他の国がそうしてきたように。その際参考にすべきは「コミケ」ではなく「ニコニコ超会議」でありましょう。などなど。




このあたりは今後も考えていくべきテーマだろうなーと思います。ハックルさんのブロマガにはこのあたりのヒントを期待しながら読んでます。




余談。

ところで今アニメでやってるサイコ・パスが面白いですよね。

この作品の世界では、今現在の問題に対して、「日本だけが、国民に性善説を強制することによって事業コストを削減することで経済復興を成し遂げた」「人の欲望は一度システムを配備してしまえば現実ほどはコストが掛からない仮想世界側において膨大なオプションを用意し、個人が自ら好きなオプションを選択するという形で満たす」という設定になっています。(後者が成立するにはオーバーテクノロジー的が必要な気はしますが)

*2 


虚淵さんは、今後の日本が「性善説に頼ることを捨てられなければ」こういう方向性の世界ができあがる。そしてそれは崩壊せざるを得ない。その先に我々が見出すものは・・・という感じで作品を描こうとされてるようです。 まどマギでは非常に納得度の高い展開を描いてくれた虚淵さんが、この作品の結末をどう持っていくか、とても楽しみです。

*1:実質的にはカタログ代必要ですが

*2:伊藤計劃のハーモニーは「医療」を司るシステムが人間を統治する形になっていましたが、こちらは経済的理由から効率化を突き詰めた結果、やはりシステムが人間を統治する形になってる。究極は映画「マトリクス」でしょうが、現実とマトリクスの間には、今後現実になりうるディストピアの可能性はいくらでもあるんですね。