セイラムの魔女狩り

このブログは特定の誰かを叩くという性質を持っています。
できるだけここでは自分の正義を語らないように気をつけます。
語るとしても、それは青二才の批判とは絶対にセットにしないようにします。
もしそういうことをしてたら容赦なく突っ込んで下さい。お願いします。


セイラムの悲劇は一つの矛盾から発展した。
それは、我々がいまなおそれに捉われて生きており、しかも解決の道を見いだせずにいる矛盾である。つまり、こういうことなのだ−−−良い目的、高い目的のために、セイラムの住民は神権政治を発展させた。それは政治と宗教の結合であり、その機能によって社会を一体化し、共同体を物質的あるいは思想的な敵による破壊にさらしかねない如何なる不統一をも防ごうとした。それは必要な目的のために作り出され、その目的は達成された。しかし組織というものは、二つの物体が同一空間を占めることができないのと同様、すべて排除と禁止の理念にもどづいており、また基づかざるをえない。秩序は危険を防ぐために作られたのであるが、その秩序の抑圧のほうが必要以上に強くなりすぎる時代が、あきらかにニューイングランドにやってきたのである。魔女狩りは、均衡がより大きな個人的自由を求め始めた時、あらゆる階級に起きる恐慌の倒錯的な現れである



示された個々の悪事に対して超越的立場を取る時、われわれはただ彼らを憐れんでいれば済む。いつの日か、また、われわれも憐れまれる立場になるかもしれないのだから。だが、人間が抑圧なしに社会生活を組織することは今もなお不可能であり、均衡は秩序と自由の間で決済されなければならない。



しかしながら、魔女狩りは単なる抑圧ではなかった。それはまた同様に重要なことなのではあるが、犠牲者の糾弾にかこつけて、自分の非行や罪を公然と表明したいと願っている者にとって、待ちに待った好機であった。ある男が、じつはマーサ・コーリィがよる寝室に入ってきて、妻がそばに寝ている間、自分の胸の上にのしかかり、「あやうく窒息させられるところだった」ということが急に可能になり−−−しかも愛国的で神聖なこととされたのである。もちろんそれはマーサの生霊というわけだが、それを告白した時の満足は、それがマーサ自身であった場合と変わることはなかった。普通ならそういうことを人前で話すわけにはいかないであろう。

隣人に対するつもる憎しみは、いまや公然と口にすることができ、聖書の慈悲の教えを気にすること無く復讐することが出来た。土地に対する欲望は、以前は境界線をめぐる口論や喧嘩によって示されたが、今はそれが道徳の舞台にまで高められた。隣人を魔女として告発して、しかも正義感に浸ることも出来た。宿縁は悪魔と神の聖なる闘いという次元で晴らすことが出来た。疑惑や、幸福なものに対する不幸な者の嫉妬を、一般的な復讐として爆発させることができ、実際に爆発させた