自分探し中の若者とブラック企業の相性が良すぎて怖い

金銭欲だとか食欲だとか、あるいは承認欲求だとか色々分類されてますけど、結局は「満たされてる自分が欲しい」わけで、それとくっついて「誰かを満たしている感覚が欲しい」ってのがあるんじゃないの

承認欲求と一言でくくられますが、こちら側の欲求についてはあまり深く考えたことがなかった・・・。





※この記事は個人用まとめです。




http://togetter.com/li/380837
を上手に纏められなかったのでブログで書き直し。多分多くの人はすでにご存じの話なのでしょうが、私は来年から就職ということもあり、この話を忘れないために記録しておきたいと思います。


「好きな事出来りゃ評価なんてどうでもいい」ってのは既に評価を受けてる人の言葉。こういうことを言う人は、どれだけ好きな事をやっても、それについて語り合う相手がおらず、家族にもあからさまに白眼視され、公式の場では誰にも相手にされないという生活を何年も続けて、それでもなお「好きな事をしてるんだから」と涼しい顔ができるか、試してみれば良いんです。そのような場所から抜けだそうとして「あなたが必要だ」と言ってくれる場所を探そうと試行錯誤したら、「自分探し」と馬鹿にされる。このような状況で「何とかして自分が必要とされる場所を見つけて心を落ち着けたい」と思わずにいられる人は、そうそういないのではないか。

結構な数の人が「既に評価を受けてる人の言葉」を真に受けて、「好きな事出来りゃ評価なんてどうでもいい」にチャレンジし、打ちのめされてはまたこの言葉を思い出して立ち上がる、という無限ループを経験していると思います。私も何度も往復運動やってますorz


自分の強すぎる自意識を保って、社会適応を拒み続け、この無限ループの中で生き続けるのは、自尊心の供給が断ち切られている状態なのでかなり辛い。かといって、適応すれば幸せかというとそういうわけでもない。むしろその方がずっと辛い事になるケースは多いようです。


ここから、ブラック企業に取り込まれる若者の話が続きます。ブラック企業は自尊心を「すりつぶす」ケースだけではなく、自尊心をゆがんだ形で刺激することで、組織に縛り付けてからこき使う、ということも大いにあるようです。

たとえば、低賃金で労働者を酷使する企業を支えているのは「心身を壊すほどに張り切りすぎてしまう意識の高い労働者」なわけですが、彼らがなぜそこまで張り切るかといえば、そのような企業は慢性的な人手不足に苦しんでいるため、どんな人間だろうと戦力として扱われるからです。未熟なうちから戦力として扱われるのはしんどいから、大抵の人は早めに辞めてしまうのですが、一定数の人は「戦力として期待されているんだから頑張らなければ」と感じて、ますます張り切ってしまいます。「君にしか頼めない」「苦しいだろうけど私を助けてくれ」と日常的に言われたら「ああ、彼らは自分を必要としているんだな。辛いけど頑張ろう」という気分になってしまいますよね。しかも、そのような声をかけてくれる人は日頃から同じ職場で働いて苦労を共にした仲間。苦しさがわかるだけに「私が頑張って彼らの苦労を軽くしなければ」という気持ちも加わります。こうして「自分を必要としてくれる場所」「苦労を分かち合いたい仲間」が得られることにより、「苦しければ苦しいほど張り切ってしまう意識の高い労働者」が生まれるのです。

意識の高い学生が、成長のないままブラック企業に適応し、意識の高い労働者になってしまう。これは恐ろしい。
本質的には何も変わっていない。本人は空虚なままなんです。ただその周囲が自分の空虚さを考える余裕がないほどに過酷な物にすり替わっただけ。この状態が続くと、いつの間にか自分の望みを忘れさせてしまうのかもしれません。

実際に、激務にあえぎながら、こういう風に声をかけられて、変な使命感をもってしまい。ゆがんだ形で自尊心が満たされてしまう人がいるようです。最近そのことを自慢げにブログで語っている若者がちらほら出てきているため、そういうことが可視化されてきているような気がします。 本人は告発のつもりがなくて、本当に自慢のつもりなのだとしたら、かなり痛々しいけれど・・・。


構造的に見れば、経営者がやりがいを餌に報酬をケチって労働者をこき使っているだけなのですが、そのような経営者の企業で張り切っている労働者に「君は搾取されているだけだ」と言って、いかに労働環境が異常であるかを説いても意味が無いです。彼は「現時点において自分を必要としてくれると感じているから働いている」のであって、「構造的に正しいから働いている」のではありません。

洗脳といえば簡単に聞こえますが、本人としては身体がぶっ壊れる寸前になるまで、そこから抜け出せないケースもあるのではないでしょうか。仕事以外に自分を語る物を持ってないとそのままいきつくところまでいってしまいかねません。言い方は悪いですが本人がぶっ壊れるだけなら本人の責任と言ってしまうことも出来ますが、実際は組織内の不祥事を実行したり、加害者になるケースもあります。


参考記事
http://d.hatena.ne.jp/toled/20070726/1185459828




居場所を求める行動を「愚か」「弱い」と嗤う言説はあふれていますし、自尊心、承認欲求という言葉も冷笑的なニュアンスを込めて使われることが多いですが、「人に認められたい」という欲求は食欲などと同じぐらい重要で、それを馬鹿にすることは食欲の存在自体を馬鹿にするのと同じです。「人に認められたい」「見下されるのは嫌だ」という気持ちを馬鹿らしいと思う人は、勉強でもスポーツでも力の無さを思い知らされ、仕事をしても頼りにされず、経歴を述べたら鼻で笑われ、話を聞いてくれる友人もなく、家族にも白い目で見られる。そういう経験をしてみれば良いのです。

この認められたいという気持ちを、素直に、まっすぐな形で表現し、実現していくためにはどうすればいいのでしょう・・・。私もネットではともかく、現実に於いては競争意識が強い。つまり誰か認められたいという気持ちは強いです。大学生まではある程度自分が努力していれば良い成績が出て認められた。部活で努力してチームに貢献すれば褒められた。とっても単純な世界でした。

これからはそういう単純な話ではないのは分かります。しかしどうすればいいのだろう。しんどそうだなぁ・・・。



「頼朝の武士団」という本で著者の細川先生は、頼朝が身分の低い御家人に対しても細やかな気遣いを示したことを述べた後に「卒業した大学を弱小私学・三流大学と嘲笑われ、研究者としての実力とは無関係に卒業した大学を理由に一流大学とやらを出た奴らから見下され、はらわたが千切れそうになるほど悔しい思いを何度も何度も何度も何度も何度もしてきた私には小代(御家人たちの名前につき省略)たちの嬉しさがよく分かる」「身が震えるほど感激したのではないか」と述べています。見下されるのはそれほどに辛く、認められるのはそれほどに嬉しいことなのです。日常的に悔しい思いをさせられ、将来に希望を持てない人間が社会や他人に対して肯定的な態度で生きるのは難しいと思います

「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ」でも語られていた話なんですが、本当に自信や希望を失ってしまうと、自分が望んだ形で認められるまで一歩も動けなくなっちゃう。逆に希望が見えたら、それしか見えなくなって他のものがすべて視界から消えてしまう。一直線にそれだけを目指すことしかできなくなる。つまり一切のメモリの余裕がない状態になるみたいです。
遠回りしたり、一旦逃げて、別のところで頑張るってことがそもそも考えられなくなってしまう。そこで過去でも右翼思想でも何でも自尊心を供給してくれるものにすがりついて、そこで閉じこもってしまう。
誰もが現実を、せめて自分と自分に関わる現実くらいは見つめて生きていきたいと思っても、それができるとは限らない。むしろそうやって生きていけるのは幸運と相当の努力が必要が両方必要なのでしょう。


このような問題を解決するためには、「過酷な場所に身を投じなくとも、十分に必要とされていると感じることができる居場所を提示すること」以外には無いと思います。居場所の提供を餌に搾取されている構造を批判しても、搾取構造で成り立つ居場所を破壊し続けても、「自分を必要し、役割を与えてくれる居場所を求める人間が存在する」という問題は解決しないからです。ブラック企業の問題で言えば、「常に人が不足していて、入ってくれるなら誰であろうと大歓迎する企業がブラックしか無い」という状況が変わるまでは根本的な解決はないでしょう.つまり、景気が良くなって「必要としてくれるなら、どんなに苦しくても献身的に尽くす人間」がまともな待遇を得られる職場に雇われて、「自分はこの職場で必要とされてるから張り切らなければ」と感じられるのが当たり前になって始めて解決するのです

人間に自尊心を与えないシステムは、 社会の敵を生産するシステムでもあります。悔しい思いをしながら社会や他人を憎んでようやく自分を支えるような生き方をせずとも、身を削るような苦労をせずとも、仕事や趣味などで「必要とされている」と感じられる居場所を得られる。そういう道を提示することの必要性について考えていただけたらと思います

経済的豊かさや成長が何故必要か。
「特に日本では」なぜ必要かというと多分そういう話なんだと思います。最終的にはそこなんだと思いますが・・・うーむ。



参考
http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-1246.html