自分がプレイヤーとして参加してない場所は思考のゴミ捨て場とか仮想敵になりやすい

「ロスジェネ心理学」読んでる途中です。
副読本みたいな感じで岡田尊司さんの「誇大自己症候群」「パーソナリティ障害」を読んでいます。
両者比較して違いを考えてみると
専門が脳科学と、精神医学で異なるという部分よりもむしろ
「どこまで思考の対象とするかの射程」が違うなーという感じです。


「誇大自己症候群」の著者側は
「今時の若者はどういう環境に置かれているのか」であるとか
「仮想ゲームやファンタジーになぜはまるのか」
「そもそも今流行ってるゲームやファンタジーの傾向は」などの点については
ほとんど考えてないんですよね。


とにかくこういうものがあって、それが問題の原因である、だからやめさせるべきだ。
そして、私たちの時代がこうであったのだからそこに戻れ、と。
そこで思考が完全にストップしてしまっている。
最初から理解しようとする気が全然ないというか
「自分の世代の尺度」で測って、「自分の時代とはこんなに違う」で終わってしまってる気がする。


犯罪者や問題児を通して、若者やその親を覆う問題について解明したいという主張の割に
著者にはあんまり最近の若者のことをよく理解したいという姿勢は見えない。
若者の背景とか理解しないで、問題だけ理解するって、できるんでしょうか。私には理解できない。




とはいえ、決して悪い本ではなく、
むしろ心理学とか脳科学の教科書的な知識を説明してくれる部分はとても参考になるし
診断項目などもとても役に立ちそうなので、これは後で紹介したいと思うくらいです。
が、この本からの情報の取捨選択にはかなり気をつけないといけないかな、と思います。
ぶっちゃけ、著者の主張部分は眉唾くらいの感覚でいいかな、と感じたり。




一つ前の記事でも同じ事を思ったのですが、
人が強い主張を行う場合、
どうしても、自分がプレイヤーとして参加してる部分を中心に考えて、
都合がわるいことやら、考えきれないことなんかは
その自分が立てる舞台の周辺部分におあずけしたり、
積極的にそこを悪者にして自説を引き立たせようとする感じになるようです。



もちろんそれが悪いと言いたいわけではないです。
万能たる神ならざる人としてはこれは絶対避けられないことでしょう。

だからこそ、一つのテーマについても無数の著書やらブログ記事があって、
読者としても、できれば複数冊読むべきなのでしょう。

自分に心地が良いからといって、ひとつの記事や話だけを
たったひとつの真理だ!みたいに受け取ってはまらないように、
一つの話を受け取ったらその周辺に少し目を向けるよう意識しようかな、と感じました。
そのあたりに話しのネタも浮かんでくるかな、と。


40台の脳科学者が、凶悪犯罪を中心に社会を語るのであれば、じゃあ30代の精神科医が、ロスジェネやら非モテを中心に社会を語る話を読もう、とか。それ読んでも20代の私としては違和感感じるところがあるからじゃあ自分でも何か記事を書こうとか。社会語りは無理なので、感想でもいいや、そんな感じで。

とかこんな記事書いてる暇があったらさっさとロスジェネ心理学読了しろ、とw