経験から「なんとなく」「妥当な範囲」をつかみきれない場所で戦うのは怖い

データ入力のアルバイトをしていたときの話。

ある媒体の、ある記事の購読率が 51.44% 、45.9%、53.37%、55.7% って並んでいたらなんとなくそのあたりの「正常値」みたいなのって頭に形成されてくると思うんですよ。隣の記事の値が81.8% 80.00% 80.1% 82.9% だったら、これはこれでまた別の正常値みたいなのって頭にできてくると思う。

ところが、このほとんど50%前後の数字が並んでいるところに「1.59% 」「95.6%」みたいな数字を入力して何とも思わない人がいた。本人はこれを指摘されたときに「元のデータがそうだったと思ったんですけどね」と答えていた。このデータが明らかにおかしいとは思わず、単なる不注意とか凡ミスだと思っていたらしい。そういうことが何度も何度も繰り返されたため、結構気持ち悪いと感じたことがある。


こういうことが悪いというわけではない。初心者や、無知無学な状態でおいては当たり前のように起こると思う。私もしょっちゅうやらかしている。ただ、それがいつまでも続くとしたら。ずっと初心者状態が継続されるとしたら。なにかに偏向しているというならまだいい。そうではなくて、偏向するしない以前の問題で絶対値がゼロだったとしたら。人の間にいながら、ごく基本的な事柄に置いてさえ正常値というか、「妥当な値」がつかめないとしたら。それはだいぶ生きにくいことになりそうだな、と思う。


ネットでもまれにこういう人を見かけてびっくりする。「ありえない発言」*1や「ありえないデータ」「ありえない論理」を持ち出してきては、その誤りを指摘された時に「単なる失言を指摘するうるさいやつだ」と判断してしまうその感覚が私には不思議だ。



とはいえ、実際は「正常値」とか「妥当な範囲」ってのがそんな簡単につかめる話ばかりではない。というか、ほとんどの場合、やれ人としての基本だとか正常値なんてものが決まるようなものばかりではない。やれグローバル化だの多様性だのの時代において、ひととして最低限の部分以外においては、そもそもそういう「正常値」みたいなものがあると考えること自体間違いかもしれない。要するに、私の方がトンデモさんである可能性は高い。


とりあえず私は何事においても「正常値」があると思っている人間であり*2
そして、それが掴み切れていない状況で何かをするというのは、とても怖いし、そういうものがまったく共有できない人を見かけるとやはり気持ち悪いと感じてしまう。



上では私がほかの人を気持ち悪いと思ったのだけれど、別の状況で、私がほかの人から「心底気持ち悪い」と思われているかもしれない。というか、他人とのコミュニケーションにおいて、私はしょっちゅうこの「1.59%」をよくやらかしている気がする。*3間違うこと自体はそれほど怖くないが、何が間違ってるのかもわからないような状態で何かをするのは怖い。




私はまず自分が取り組んでいることについて「妥当」な範囲がわかる人間になりたい。「妥当がなにかもわからず、ただずれた自分の位置から、ずれたことを言っては突っ込まれ、 それでも自分こそが正常だという思い込みを手放せずにさらにずれていく」そういう悪循環には陥りたくない。
周りのことがちゃんとわかってるという感覚を持ちたい。 安心したい。

*1:極右的な発言をしておきながら、自分は中道だと思っているとか、産経新聞にバイアスがないと思っているなどの素敵発言

*2:よくわからんけど規範性っていうのかな? http://d.hatena.ne.jp/crowserpent/20090308

*3:そして、自分ではそんなに変なことをしているつもりはないのに、すごく変な顔で見られたりするので、すごく傷つく。傷つくけれど、何がおかしいのかもわからないと、なにをするにも臆病になってしまう。他人が恐ろしくなって、被害妄想を抱いたり、必要以上におびえてしまう。逆に、自分から見てあからさまにずれたことを言う人にはものすごく攻撃的になってしまう。悪循環である