キャラづくりに成功してしまった故の苦しみもあるのだなぁ

http://anond.hatelabo.jp/20130207164542

男性のオタクは、ありのままの自分を外に晒すことができている。
髪型も、服装も、何も無理をしないで、自然体の姿で外に出ることができる。太っていても、お風呂に入っていなくても、毎日同じ服装でも、それで外に出られる。それを「キモイ」とか非難する人が居たら、非難してくる奴が馬鹿でクズだと思ってる。私は、それを、大きな自信のあらわれだと感じる…。自信満々だからこそ、その姿で外に出られるんだね、家の中と外で何も変わらず居られるんだね、と思う。家の中の自分に自信が持てず、外見を作りこみ、防衛する気持ちを、オタク男性は理解してくれないんだ

これなんて「ブラパ The Black Parade」。キャラ(外見)とリアル(中身)が乖離しており、それが対立するという思想って昔からあるんだけれどよくわかんないなーと思ってた。これって女性特有の考え方なんだろうか。 

まだ気が付かない?本当は私なんかより留美の方がずっと強いのよ?本当の私は弱いから、現実で生きていくなんてとても無理。かといって「フジノ」は現実に戻ればただの頭のおかしい女の子でしかない。だから「・・・」という虚構に逃げ込むしかなかった。けれど留美は現実でも・・・でも、そのままのあなたで生きていけるでしょう?
(中略)
本当はね 私 留美のようになりたかった。

きっと本来のフジノは「自分」が嫌いなんだ。だから強い「フジノ」になろうとした。けれどそれは二重人格とかじゃなくてただの「演技」にすぎないから、俺のいないところではきっと「弱い自分」と「強いフジノ」のギャップに、そして「現実」とどんどの折り合いがつかなくなっていくことに苦しんでした。

「自分って何?」ってテーマではあるけれど、ココロコネクトより手前の問題かな。こういうのって、いままで男性にはあまり縁がなかった悩みだと思う。少なくとも私は今一つ理解できない。

というか昔からあまりキャラづくりが上手ではなく、そういう方向をあきらめてしまったところがあるため、こういうキャラ作りに成功してしまった人なりの悲哀というのは、なんかこう、もやもやする。自分にその能力あればもっといろいろできるかもしれないのにうらやましいって気持ちをどうしても持ってしまう。

しかし、ネットによって自分を装ったり粉飾したり嘘をついたりごまかしたり、他人の威勢を借りたりなどいろんな「化粧」というか粉飾ができるようになってくると、むしろ今まで耐性がない分、自我崩壊を起こす男性は多くなるような気もする。

お隣さんは結構そんな感じだと思うけれど、いつ破たんするのか、それともなんとかその前に現実に着地できるのか、興味は尽きない

青二才ってキャラを自称するためには、誰かに受け入れ「られ」たら、そこでゲームオーバーである。だからいつまでも敵を見つけて何かと戦い続けなければいけない。そういうキャラを捨てるか、それとも現実的な幸せを選ぶのか、どうするんだろうね。幸せになってほしいよね。

http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20120326/1332709692

私は強くなりたいわけじゃない。
弱くてもいいの。
あなたが望む私でさえいれば
だって留美に求められていたからこそ私は…

だから彼女は「演技」の判断を俺にすべてゆだねることで苦しみから解放されたがっている

こういうことだけにはならないとよいのだけれど。






以下蛇足。

にしてもブラパ、あっさりさっぱりきれいに終わってしまったなぁ。

この作品、同じ作者が他の作品で「妄想の世界に順応してしまった結果、果てしなくそっちの世界にのめりこんでしまう人々」「自我の問題に耐え切れず、自我を手放すことで救済を求めようとする人たちの楽園(でもその楽園運営してる人の目的は・・・)」みたいなの描いてたので、この作品もどんなドロドロ展開になるのかなって思ってたけど、本当にあっさり終わった。埋まってた地雷も爆発させずに回収してしまった。

俺たちはどうしたって本当は弱いから。
頑張るには「強いフリ」が--嘘が--必要だから
…だから お前の言葉が嘘でもごまかしでも構わない
そう言ってくれる
「そういうことにしてくれる」お前の言葉が
俺はただただ嬉しいんだ


でもある意味この「これ以上話が広がらない(可能性の枝を切ったから)」「これ以上の展開を捨てる(足元を確実にする)」ってのも一つの選択だと思うのでそれは受け入れたい。世界線は拡散させるだけじゃなくてどこかで収束させるべきだよね。



あえて書くとこの作者にもっと掘り下げてほしかったのはこのあたりの描写だった。

私たちのような物語のキャラクターってセックスとは無縁で、まるで性機能なんてないかのようにふるまっていることが多いけれど、本当はそんなことないんじゃないかって思うの。彼らは冒険を通じて精神的な部分で強くつながりあっているから、たとえ愛情を深めても性交が人間関係の到達点になることはないわ。
でも人間だもの。どんなに綺麗に見えても「しようと思えばいつだってセックスができる動物」という事実は変わらない。だからきっと物語の主人公やヒロインにとって、セックスの価値は読者の知らないところで禁欲的に高められていて、性的な欲求とか繁殖の本能なんてものとは無関係に、ただ良質な甘露として「気持ちいい」を誰かと共有するための機能として存在しているような気がするの。仲間と重ねてただ純粋に気持ちいいって思えるのよ。意味もなく飴を舐めるように。
だから皆、あんなに綺麗な心でお互いを信頼していられるんだわ。

これとか同人の裏側にある欲望みたいなのまんまで楽しい。セックスが抑圧されたり、男性そのものが作品中から抹殺(濾過)されて、その上澄みだけ抽出したら、こしとられた欲望は下部の同人の世界に吐き出されるよね、と。

あるいは「セックスを否定した人間関係の限界」みたいなところというか「セックス最強」vs「人間の関係性の可能性は他にある」みたいなところとかも考えたら面白い。AKBオタってセックスの可能性を持たずになぜキャバ嬢にここまで貢げるのか、っていうかAKBがブレイクする前に「嬢王」って漫画があるなーって思ったら本当にあの世界が現実になっててワロタみたいな話とかいろいろ考えたかった。