人の独善を批判するやつは偽善だ問題

エゴだよ、それは!

http://www.twitlonger.com/show/hfm39f

1993年の話らしいですけど面白かった。
以下は自分が面白かったところ引用して感想書いてるだけなので他の人には意味がありません。上の記事を読んでください。


①主義としての独善VS偽善

富野由悠季シャア・アズナブルは独善的な正義を手にするためにはどんな卑劣な手段を使ってもかまわないと。
スポンサーを騙して、自分のマスターベイション的なものを作ってもかまわないんだ、という独善的正義で作品を作ろうとしている。それに対して、アムロ・レイというもう一人の富野由悠季が出てくる訳ですよね。

そのもう一人の富野由悠季は「これはいくらスポンサーがいて、愚民がお金を出して作れと言ってるものでも、これはアニメーターなり現場のスタッフが飯を食う糧なのだから、やっぱり一生懸命やってみんなが幸せになれる作品にしなきゃ駄目じゃないか」という偽善ですよね。偽善の正義と独善の正義が、宇宙空間で隕石というものを・・つまり隕石というのは『逆襲のシャア』と言う作品ですよね ・・巡って闘いあっている作品なのではなかろうか、ということにだんだん気がついてきたと言うことですよね。

だから、まあ、見終わった後は何とも言い難いものがあったけど。隕石は落ちなかったわけですからね。

押井学との比較する人ととかいそう。良い意味で現実とフィクションを割り切れてない感じが素敵。

あと、独善を好む奴は偽善に大して吐き気がするらしい。私を勝手に偽善と判定して独善的な言葉をぶつけてくる人がいてわけが分からなかった。



②個人の内部での独善と偽善の葛藤

現場作品を維持するためには、どうしても他人に斬りつけたり傷つけたりしないと作品を作れないと言うところがあって、その中で「そういうことしちゃ駄目で、みんな手に手を取って言い作品を作らなきゃだめだ」というようなきれい事言うやつってすごく頭に来るんですよ。「そんなこと出来るもんならやってみろ!」って言いたくなるんだけど、アムロ・レイっていうのはまさしく、そういうことを言ってるわけですよ。

ただ、引いた目で見ると、独善と偽善が闘ったときにどっちが勝ってもらいたいかというと、本当は偽善者に勝ってもらいたいというのはあるんですよね。
独善で生きている人間って、あまり未来はないんだけども。偽善者には・・もし偽善を貫くと、それは偽善ではなく完璧な正義になってしまうわけだから。・・だから、偽善者がそういうことをいうんだったら「じゃあ、ちゃんとそれを貫いて、正義にして見ろよ」というようなことを、独善な僕や庵野さんや富野さんはいいたい、という感情はあるような気がします。

分人主義の話にもつながるねこのあたり。
http://t.co/ioJIHmOI
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110930/222913/

平野啓一郎もいいけど、個人的には上のウチダさんの記事がものすごく好き。



③根っこの部分はシンプル

逆襲のシャア』だとシャアがいろいろと難しい、事細かいこととか言っていて、政治のこととかもでてくるけど、「そんなのは全然関係ないだろう、シャア・アズナブル」と思って。「お前がやりたいのは、単に腹立つ奴らに隕石を叩きつけたいだけだろう。それしかないだろう」って(笑)。だから何の政治理念も何もないだろう。それがいいな、と思いますね。

私はお隣さんにこういう子であって欲しかった。体罰論はもっとも冗長な駄文であったが、それだけに秘めた本心がむき出しになっていて非常に良かった。ゆえに、本心を覆い隠そうとするいばらの刺を取り除きたくなった。うん。それは偽善でもなんでもなくただの好奇心。



④ドラマ啓蒙主義 VS アニメだからできること

やっぱりセリフがいいですよ。セリフがドラマと独立しているのがいいですよね。 もはや、もうドラマがドラマのために進んでいないことが明白だという。
そこら辺あたりが見ていて気持ちいいよ。

0083』なんていうのは、まさにドラマのためにドラマが進んでいく話であるから、あそこで間違いなく「ズッヒューン!」って打ってドラマは終わってしまうわけだよね。「それだと全然面白くもクソもないだろ」と思っちゃうんだよね。 あれは、あの素直さがつまんなくてね。キャラやドラマも薄味だし

なるべくそういうドラマ啓蒙主義的なものはやりたくないの。

ドラマ以外のことでも画面に対する奥行きというのをちゃんと描写しようとしているなぁ、と。
最近の富野さんっていうのはそういうことをまるで考えてなくて、もう完全にドラマのための絵だというように割り切ってしまっている。いつからそうなったのか、よく分からないんだけど。

私はドラマ啓蒙主義的なものが好きだけれど。アニメーターからしたら「それはアニメでやるひつようがあるのか?」「アニメでしかできないことなのか」という感覚になるのがすごく面白い。



⑤進化以上のものを求める時、一度死んで再生できるか問題

殺して欲しかったからそう見えるんだろうけど、人間生きて行かなくちゃイカンという、
富野さんも60、70まで生きて行かなくちゃイカンという。ものすごく辛い現実があるわけですよね。
 生きていくためにはどうしなきゃいけないかというと、同じ事をやってるわけにはイカンわけですよね。だから進化しなきゃいけない。

進化していかないものの作り手というのは絶対に生き残れない、という宿命があるから。それは分かってる。だから進化しなきゃいけないっていうんで一度『逆襲のシャア』で死んでやったんだろうな、と思ったんだけどね。ただ、あんまりいうとあれなんだけど、今の『Vガンダム』とか見ると、やっぱり死んでないんじゃないか。

富野さん、1から始めてないわけですよね。捨ててないわけですよね。 捨てきれなかったんですね。富野さんはねえ、ララァを捨てられないんですよ。でも、恥ずかしさを知る心が有るんならわからないな。捨てる捨てるって口で言うのは楽だけどね、なかなか捨てられないよね。特に男は未練の動物ですからね。やっぱ、自分が子供の時見た物って捨てられないですからね、なかなか。捨てなきゃいけないといわれてもね。とにかく身につけている物を捨てて裸にならなきゃ前に進めないですからね。

F91」では「若い才能とかそういう物に打ちのめしてもらいたい」という願望が多少出てきてるのかな。で、「打ちのめしてもらいたいのだが、結局は打ちのめされた末に、自分がさらにグレードアップされて帰りたい」という欲求があるのかなと思った

最前線って本当に厳しいな。進化するだけじゃなくて、定期的に自分を完全に殺しきれ、と・・・。そのためならなんでもするぜ、って当たりは「昴」「MOON」のプリシラあたりを思い出します。まさに修羅の道。


⑥アニメは多様な才能の自己主張のせめぎあい?

安彦さんの富野さんの世界観をまるっきり否定してしまうような絵がですね、なんか最初の『ガンダム』の私にとって魅力だったんですけどね。

イデオン』の湖川さんの絵はピッタリしすぎてつまんない。解り易すぎるんですよね。非常に表情にしても、バイオレンス描写にしても、非常にそのままなんです。解り易いんです。「ここまでやるんだぞ」っていう確信犯的な描写なんだけど、それがいかにも「確信犯としてやっています」っていうメッセージが解り易すぎる。
安彦さんがやると「こんなのはやりたくない」というようなのが端々に出ていて、それがいい味だしてる。

逆襲のシャア』で北爪さんの絵が好きだっていうのはね、中間なんですよ。なんかね、だから、こっちが考えないと分からないっていうのがいいんですよ。アレがね、分かりすぎるとね、もうハイって言うしかない。遊べる余地があるって言うのかな。考えられて面白い。

分裂してるところが逆にいい、って発想は面白いなー。