130424

まずはじめに結論。もしドラ1章は神です。2章以降は賛否両論わかれるかもしれませんが、もしドラの導入はマジで神です。そうです、あのコが僕の畏敬する天使様なのです。


というわけで、

http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar207128

この記事読んで、もしドラファンの私大歓喜

そもそも、恋愛って何?ということを、高校生ぐらいに考えたことから始まります(笑)(←おまえなんやねん!)。そんで、このころからちゃんと分析の基本を僕はわきまえていたようで、物事を考える時には、縦軸と横軸が必要で、そのうちの縦軸(=時系列の変遷)について考えたのですね? 簡単に言えば、どっかの歴史の教科書とか社会学の本でも何でもいいから、恋愛の歴史ってないのかな?って。←明らかに頭のおかしい高校生男子です(笑)。普通、そんなこと考えねーよ

そうするとね、あるんですよ、これが

おおお、なんというもしドラ的導入。

良い意味で明らかに頭のおかしい女子高生が
「マネージャーってそもそも何?」と唐突に考え、
それを探してたら偶然「マネジメント」という本に出会う。
そして「マネジメント王に、俺はなる」とスピリッツに目覚めるのがもしドラ
もしドラは導入だけならかなりワンピに近いポテンシャルあると思うんだ。

女子高生はなぜこういうことを考えるようになったのか、の作中での説明がかなり残念ではあるけれど、こういうことを考える女の子を主人公に持ってこようとした時点で、私の中ではその作品は別格扱い。だから海燕さんの記事も、この導入持ってきた時点で勝ち組。

もうこの導入部分だけ読んでも興奮する。全国に何人いるかは知らないけど、「もしドラ」ファンとか「せんせいは何故女子中学生にちんちんをぶちこみ続けるのか?」が好きな人ならこの導入には胸が震えるはず。




「インテリぶる推理少女」の感想でも述べたけれど、
「何かを偏愛or偏憎して、その結果壁の向こう側に突き抜けたキャラ」とか大好きなのです。
誰かさんも、はてな憎しのあまりではてな大気圏外に飛び抜けて欲しいと思ってます。




余談ですが岩崎さんはこういう考え方にもとづいて、もしドラを考えられたそうですよ。

①今はノンフィクションノベルか、読んだ人が気持ち良くなれる慰撫小説しか読まれないだろうね。それ以外は需要がない。 ②それか、もっと世界的なスケールでこの世界その者を問う、という小説になら読まれる理由はあるかもしれない。宮崎駿が「風の谷のナウシカ」でやったようなアプローチで、エンタメと文学を架橋することは可能だと思う。そこに抜け道が。文春ジブリ文庫から出ている「ジブリの教科書1 風の谷のナウシカ」を読んでいるけど、小説を書こうとしている人には、これは参考になるのではないだろうか。小説を突き抜けてその先のもっと奥深いところにアプローチしないと、小説そのものは読まれなくなる



というわけで、とりあえずこの時点でもう満足です。後の内容がどんなものであれ勝ちです。



で、すでに満腹状態ではあるけれどあとに続く展開も読んでみた。満腹状態だったのがイケないのかもしれませんが、ここらあたりはまだよくわかんねーのです。
でも、すごく興味はあるのです。

「自分自身、十分な愛情と承認を与えられていない闇属性の人間がどうすればアンカーになることができるか」
(中略)
自分自身を無条件に承認できず、生きるためのエネルギーが不足している闇属性の人間でも、契約さえ結べば動き出すことができます。かれらのエネルギーは愛情と承認ではなく、コンプレックスやルサンチマンそのものなのです
(中略)
ここに一本の道があります。細い、ほんとうに細い、「契約強者」への道です。これこそが闇属性の人間にとっての最大にして最後の希望だと思うのです。
(中略)
生まれは闇属性であっても再帰的な家族のアンカーになることができます。
生きる動機を自分自身から調達し、それを周囲に分け与えることができるからです。
(中略)
問題は、始めるために必要な「「好き」という特異点」をどう見つけるかということ。

このあたりは、来週から観る予定の「Noein」とか「廻るピングドラム」とか「灰羽同盟」なんかと一緒に考えたいと思います。 こないだ読んだ「プラネット・ラダー」やら「認められたいの正体」やら「なめらかな社会とその敵」、あと「ロスジェネ心理学」なんかも参考にしながら考えます。(※誰かさんへの論評を書くために読んだけど結局使わなかった)





にしても、今読んだ限りで理解している範囲だと、
やはり「「好き」という特異点」が必須なのだな、という点がキツイ。

上記の文は完全には理解できないまでもきっちり密度のある論だとは思います。
しかし私自身、薄っぺらながらも、
中略部分を除いてはある程度似たようなことは考えているんです。
そして、最後の行き詰まりの部分でいつも困っているのです。

「そこ」を越えるにはどうしたら良いんでしょう。
それだけを手っ取り早く知ろうとするのは甘えなんでしょうか。
ハイタッチだけで救われることとの違いは何なのでしょうか。

この話は、中略の部分の議論の密度を上げていくことでいずれ壁は壊れる、という話なのでしょうか。そこの密度を上げて行かなければ越えられない壁なんでしょうか。

それとも、とりあえず自分が壁をクリアするだけならもっと容易なものなのでしょうか。

そこがよくわからないんですよね。

一番最後のどん詰まりの部分を、物語の中だけでもいいから解決した話を楽しみたい。






そういう意味で、今一番楽しみにしてるのは「悲鳴伝」シリーズです。早く続き読みたいー