増田を選んだ人とニコニコを選んだ人の差みたいなものについて

http://kawango.hatenablog.com/entry/2013/01/10/114420

ぼくは小学校の頃から1対1なら友達と喋れるが、友達の輪の中ではまったくひとことも喋れなくなることが多かった。ぼくが喋ってもだれも聞いてくれない、だれも望んでいないという恐怖から一言も喋れなくなるのだ。そうなると、だれかが気を遣って話を振ってくれても、もうなにも言葉がでてこない。当時のぼくのように、周りの人間関係の中で疎外感を感じながら、自分にはなにも喋る資格がないと思って、無口に暮らしている

ぼくもよくひとりきりになるとトイレや風呂場でひとりごとをいったり叫んだりする。言いたいことを聞いてもらいたいから無口になって生きる

自意識過剰乙といわれて終わりなんだけど、この文章はまさに私のことだ・・・と思ってしまうくらいまんま自分だ。



世の中にはだれかに話したい、叫びたい思いを抱えながら、現実世界では、ずっと黙って生きているひとがたくさんいる。5年前、ニコニコ動画が生まれたときの異様な熱気はそういうひとをポジティヴに救う場所がはじめてネットにできたからだろう。

私はニコニコによって救われた人間では無い。むしろ、増田にはまってネガティブな傾向を加速させた人間だ。それでも、何か自分の話を聞いて欲しい、正確に言えば自分が取ったリアクションに対して反応が欲しいって欲求がものすごく強くて、かつ自分には自信がなくて、自分を偽りながら文章書きまくってた。その結果自分自身は一歩も成長しないでただはてブ集めてニヤニヤするだけみたいなルサンチマン(反復)地獄みたいな状態に陥ってた。



今でも自分の文脈を持つどころか、自分自身がよくわかってなくて、シロクマさんのブロガー論とかも、凄いなーとは思うものの、全く共感を感じない。もちろんそれが正しいと頭でわかっているのに、自分がそうしようとは思えない。



だからこそなのかもしれないけれど

ニコ動以外でのほとんどのネットでは、そういった叫びはネガティヴな呪詛だ。ぼくはそういうのを見ると腹が立って本気で喧嘩をふっかけることがよくある。全力で叩きつぶそうとしたりする。だって間違っていると思うから。別に彼らの昔の自分を見て、まだ、そんなところにいるのか、こっちまでこいなんて偉そうなことを思っているわけではない。繰り返すが、ぼくは昔と変わっていない。環境が変わらないと人間は変わらない。ただ、思うのは、例え、ぼくの罵倒が、さらに彼らの頭に血を上らせカッカさせたとしても、ちゃんと彼らの叫びを無視するわけでなく切り捨てるわけでなく真っ正面から向き合う人間の存在はなにか生きている実感は与えるのではないか

こういう言葉に結構心が動かされちゃったりする。いや、どう考えてもろくでもないというか、それをいっちゃあおしめえよ的なこと言ってるはずなのにね。
岩崎さんよりも海燕さんのメッセージより、私にはこういう言葉が一番刺さってしまうのでした。ああこじれてるなぁ。




ちなみにこのあたりがkawangoさんが岩崎さん大好きかつ応援する理由なのだと思う(ハックルさんが成功しないならそんなネットは間違っている、とまで言い切っている)文章の内容とかよりもっと魂の深いところでシンパシーを感じているのだと思う。

しかし前の記事でハックルさんのコミュ障論を紹介したけど、比較するとハックルさんのは浅い感じがしてしまう。本当にこの人でいいのかな?

そもそも他人とコミュニケーションをしたいけど上手くできなくて悩んでいる人というのの感覚がよく分からない。とにかく相手の気持ちを慮る、考える、読む、汲む、それだけしてりゃいい話なのに。

パフォーマンスならいいけれど、これを本心から書いてるのだとしたら、kawangoさんの眼差しをハックルさんは受け取れないのではないかと思ってしまう。珍しくハックルさんの言葉に「コレジャナイ」って感じてしまった。