「通訳と翻訳の違い」一部抜粋

自分なりに整理したかったのですが、とりあえず丸写しします。

なぜ読書こそが言葉を身につけるもっとも良い方法かといいますと、
言葉というとなぜか単語だと思いがちなのです。
私が初めて同時通訳ブースに入った時に、突然全く通訳できなくなったのです。「私はこの職業に向かないし、まったく能力がないから絶対もう同時通訳ブースに入らない、辞める」とその場で私はイヤホーンを放り出してブースを飛び出したんです。そうしたら、師匠の徳永晴美さんが追いかけてきて、「万里ちゃん、単語を全部訳そうとするからできないんだよ。わかるところだけ訳しなさい」と言われました。それで、なぜかその時に開眼して、本当にわかるところだけを訳して言ったらできたんです。

それが通訳のコツだと思うんです。ところが、私たちは訳すときに、言葉の部品である単語にとらわれる。つい、その単語に囚われて訳そうとするのです。しかし、単語が誕生する瞬間を思い出して欲しいのです。単語が現れる瞬間というのは、なにかこう言いたいことが出てくる。それをなんと言ったらよいのかわからない。この心や頭のなかの状態。悲しいとか、それともハンバーグを食べたいとか、モヤモヤっとしたものが、いろいろある。言葉が出てくるためには、まずそのもやもやが必要なのです。つまり、まず概念があって、その概念を例えば日本語とか、アメリカ人なら英語とか、ロシア人ならロシア語のコードにしていく。そしてコードにしたものを、声に乗せて音に出すとか、文字にして表現していくわけです。

通訳するときに、そのもやもやの毛かとして、つまり概念の結果として出てきた、コード化されて文字になったものや音になったものだけを拾って訳していたから、私は同時通訳ができなかったのです。言葉が出てくるメカニズムは、このモヤモヤから出てくるのです。

だから私たちは、この概念が表現されたものを、文字とか音で受け取った時に、まずその内容を解読しますね。聴きとって解読する、あるいは読み取って解読する。解読して、ああこれが言いたかったのかと、モヤモヤの正体というものを読み取るのです。そこで、このモヤモヤの正体がわかった所で、理解できた、となるわけです。文字そのものではないのです。ですから通訳する時にはまたこのもやもやを作り出さなくてはならない。

つまり、先に言葉が生まれてきたプロセスを、もう一度辿らなくてはいけない。

言葉が生まれて
それを聞き取って、
あるいは読み取って、
解読して何が言いたいかという概念を得て、
その概念をもう一度言葉にしていく。
つまり、コード化して、音や文字にしていくプロセス

これを経ないと、生きた言葉にならないんですね。その結果だけやるほうが速いと思われるかもしれませんが、実は今のプロセスを経た方が早いのです。

なぜかと言うと、言葉というのはその部品ではなくて一つのテキストだからです。小説だけではなくて、例えば、物理の好きな人は物理学でもいいし、サッカーが好きな人はサッカーの記事でもいいけれども、言葉とはそういうテキストなのです。このテキストになったものを受け取って、そしてまたテキストにしていくプロセスです。

だから、単語ごとに拾って暗記したり、あるいは文法という骸骨の部分だけを頭に入れるということを、生きた言葉と無関係にいくらしても、ほとんど意味は無いですね。魅力もありません。おそらく概念を捉えて訳すということをして、同時通訳は成り立つと思います。手話の場合はどうでしょうか。おそらく一語一句の訳は不可能ではないかと思うのですが、それができるという信仰を捨てない限り、通訳としての飛躍は不可能だと思います。

これについて、米原さん自身がどういう訓練を経験したかという部分を踏まえて、コンビニ店長の記事に接続したいとおもうものの、元の文章をそのまんま読んでもらったほうがいいよね、という気持が強くて心折れそうです